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かわちゃんのバイク三昧
贅沢な子供時代

贅沢な子供時代

家は長屋住まいであった。父親は会社ずとめの給料取り。従って生活は安定して
いた。

一方その隣は夫が戦死して母子の生活で窮している家庭、、父親が共産党員で 
仕事に就けず紙芝居屋で糊口をしのぐ、、。又そのむかいは母親がいるのかいな
いのか、、、、。

母親は生来のしっかり者、きれい好きで 倹約家で 子煩悩。そして 和裁洋裁
はお手の物。終戦後豊かではないが、何不自由無く育てられた

7,8才の頃に冷蔵庫が届いた。もちろん電気冷蔵庫ではない。がっしりとした
厚みの木で作られた冷蔵庫である。開閉口に金具が使われている。

私は氷屋に使いに出される。固まりの氷(20cm立法?)、、おがくずの中に
いれて走って持って帰った。それを冷蔵庫の中の最上部に置くのである。そうす
ると冷気がしたにおりて中のものをひやす。

スイカ トマト、、、、なんでも冷やして楽しんだものである。もちろん近所さ
がしてもこんなものがある家なんぞ無かった。

食事は定期的にステーキ?である。あのころにステーキなんかあるわけ無いのに
母親はどのようにして手に入れたのだろう? 確かに牛であった。

そして西洋風にして フォークとナイフで食べるのである。ご飯も皿に盛ってあ
る。フォークの背にご飯を載せて食べるのである。いわゆる西洋風である。

小学生も終わりの頃は、叔父の家の中古テレビが届いた。もちろん近所広といえ
どもテレビのある家なんかはほとんど無い。

食事もすんだ7時ぐらいから近所の人が集まり始める。テレビの前に垂れ下がっ
た幕をおもむろに上げて、チャンネルを回す(回す!のである)

20人ほどがみんな座敷で正座して画面に食い入るようにして毎晩過ごすのであ
る。
昭和30−40年までの巷の風俗  その1
昭和30−40年までの巷の風俗  その1



確か昭和33年前後に売春禁止法が施行されて、売春が禁止された。それまでは
特定地域においての売春は合法化されていたのである。この法律で大きな問題が
出た

1.売春婦が職を失った

2.売春宿が経営が成り立たなくなった

今回記すのは #2である、、。

この売春宿がどう変貌を遂げていくかと言うことと、私たちの青春時代とがオー
バーラップするのである。

結論から言うと連れ込み宿に変貌していく。今で言うラブホの走りであるが、

一様に 宿の入り口には青かピンクの温泉マークのネオンがかかる。いわゆるク
ラゲである。

そして宿は全て畳である。部屋は次の間が用意されていて、そこに布団が敷かれ
ているのであるが、その枕元の灯りは例によってピンクの照明なのである。

私どもの風俗はピンクとブルーなのである。このころに人気のあったのがピンク
のパンテイーであり、やはり今でもピンクがもっともいいのである?!?!??


玄関をはいると、いわゆるやり手ババーが出てきて大体2階の部屋に通される。
それは売春の部屋はすべからず2階であった名残である。

そしてそのババーは、ちゃぶ台をはさんだアベックの間に割っては入り込みお茶
を入れるのである。

もちろん今の女と違ってあのころの女性は下を向いて真っ赤になっているのであ
るが、やり手ババーは知らんぷりして(奥さん!お風呂はお湯を入れていますか
ら止めてくださいね!)と決まり文句でしゃーしゃーしている。

ここで手慣れた男ならバーサンにチップを渡すのであるが、若いカップルであれ
ば舞い上がってしまってそんなことはすっかり忘れてしまうのである。そうすれ
ばバーサンは舌打ちをして引き下がるのである。

そしてそのイヤミは、、、の最中に、、ふすまの外から(あのころは全てふすま
である)、、、お客さんなにか飲み物は、、、!!、?

 客もたまったものではない。従ってやり手、、、というのであるが、、

金の支払いは前払いもあったし 後払いもあった。

こういうものが何年かつずいて 連れ込み宿も変貌を遂げていく。顔を合わさず
にお金のやりとりができるように、、、。

もちろん現代は、、私はとんと存ぜぬが、、。

今を思えば、これも情緒の一つかも





昭和30−40年までの巷の風俗  その2

スナックとか言うものが登場したのは、昭和30年も後半。それまではバーであ
る。そのバーも営業時間の制限があり、その結果風前の灯状態であったが、簡単
な食事を出すことによって、確か2時過ぎまでの営業が認められることになって、
それをスナックと言い交わして、店のほとんどがスナックとなったのである。

従って12時をすぎると店はお客に食事を取ることを要求するのである。食事を
してもらうことで延長の営業ができた。事実警察の取締があって、食事を出さな
い店はスナックとして認められずバーの違法営業として逮捕されていた。

従ってそのころのスナックの店員はバーからの転換であるから女性であってもカ
クテルから始まって、あらゆるお酒に通じていた。

シャエイカーをふる女性はざらであり、私どもは洋酒はカクテルから始まったの
である。

カクテルを飲まないときでもハイボールであった。そしてビールもあったが消費
量は少なかった。

水割りなんて言う飲み物はまず無かったし、ロックで飲めるほどのおいしいウイ
スキーもないから、必然カクテルになったのかも知れないし ハイボールになっ
たのかも知れない。

それが 昭和40年も過ぎる頃から、水割りがはやり始め、それと併せて、素人
女性が働き始めて、カクテルの技術がスナックから消え去ってしまった。

そういう意味で、私どもは今の人間とは違っていろんな洋酒に親しんできたので
ある。

当時のスナックのイメージはやはりブルーのカクテルの意味合いが強い。

そののち全共闘の時代とあわせてはやった歌が (小さなスナック)。

従ってカクテル時代のスナックの頃の女性は、プロであるから、全てにわたって
私たちを指導してくれていたのである。

今のようにただ呆然と突っ立って焼酎水割りを作るか カラオケの操作をする馬
鹿女ではないのである。

色気と 会話  そして、、、、の手ほどき、、

従って子供のようなわたしたちはプロのもてなしにボーぜんと オッ立っていた
のである。 いや、、その、、、、、、あれではない。

私たちの昭和は戦後の名残であり、男が男であった時代である。駅には必ず酔っ
ぱらって寝ている男が、いくらでもいたし、クリスマスには三角帽子をかぶって
(シナの文化革命の共産党の粛正もこれをまねたかな)ジングルべー ジングル
べーと放歌していたのである。

もちろん私はそんなアホはしないが、、。



北朝鮮拉致問題を考えるに

北朝鮮拉致問題を考えるに


膠着したこの事件の解決を真剣に考えれば、考えるほど出口がないと思わざるを
得ない

日本の首相が援助と引き替えに北朝鮮に渡っても、幾人かが引き渡されるだけで、
更に援助物資をえるがために小出しにしていくだけであろう。

そのうちに被害者家族は高齢化して、この事件は風化していくしかないのであろ
うか。

誰もが解決の糸口を見いだせないばかりで、躊躇しているのが現状である。又金
正日相手に啖呵を切れるほどの政治家は今の日本にいない。

すなわち宣戦布告である。実際何百人とも言える被害者を引き連れて帰るために
は、そうした方法しかないのではないか、、。

北朝鮮シンパの社民党連中や朝日新聞は 粘り強い交渉!といつもいっているが
では具体的にといえば、くちさきだけで 何をも持ち得ないのである。

いわゆる左派の連中のおきまりの日和見主義なのである。彼らのノー天気は病膏
肓である。核兵器廃絶には憲法9条を世界に広く知らしめましょう、、とかいう
ような、今時中学生でも言わないような論法を誠しめやかに述べる。

いずれにしても、政府に対策室を設けたとしても、相手に対して恫喝する根性が
ないからしてはなから一人芝居に終わる。

それは北方領土に関してもしかりで、堂々と相手の卑劣さを世界に広く知らしめ
たうえでの交渉でなければ何ら進展はしない。

極めて難しいのが被害者の奪還なのである。

戦争しかないとおもう。それでなければ悔しいが金で取り戻すしかない・そうす
れば彼らは、その金で核兵器開発に邁進する。

なぜなら彼らは拉致被害者は金を生むものとしてみているからである。いわゆる
拉致ビジネスなのである。

悔しいが現実である。それを日本の政府関係者は考えようとしない。努力してい
るという振りをしているだけでお茶を濁している。

卑近な例はいくらでもある

ローマ帝国が5,6世紀に衰退していって、イタリアとバルカン半島に残る東ロ
ーマ帝国(ビザンチン帝国)ぐらいにしかその勢いを残していなかった。

イタリア半島も バチカンといくらかの都市国家しか残っていず虫食い状況であ
った。

それと比して勢いをつけたのが北アフリカ エジプトを核とするイスラム集団で
ある。

ちょうど地中海を挟んで北と南という構図になるが、このイスラム集団がイタリ
ア半島からの人々を拉致しつずけた。イスラム集団が海賊となってイタリアから
人々を拉致したのだが、約7,800年にわたってこういうことがくりかえされ
た。

イタリア やフランスを含む西洋都市国家はその間にもイスラムとの戦いのため
に何度も十字軍を派遣してイスラムとの戦いを繰り広げたが、拉致被害者はおき
忘れ去られた。

12,13世紀にもなろうとして初めて真剣に拉致被害者を奪還に向けての行動
が取られたが、その奪還方法は金銭によるものであった。イスラムはそれがビジ
ネスになると思い金銭のつり上げを計り、また狡猾派方法で彼らを翻弄した

。その方法も血みどろの奪還であったとかかれている。そののちルネッサンスが
おこり西洋諸国が力をつけていく中でイスラムとの力の差は歴然となり、拉致と
いうものは消滅したのであるが、

そこから学ぶものは
1.国が防備をしっかりしない
2.国力が弱まる

なかで、拉致というものがおこり

3.国力が充実する中で

拉致というものが消滅するのである。私どもは平和ボケの中で、国境警備を怠り、
防衛意識を捨て去った中で起こった事件であることを認識しないといけない。

そうしてそれの奪還に向けては、金銭か戦争かしか無いというのも事実である。

いずれにしても高いリスクをはらうことは間違いないが、今の日本人には、いず
れの選択もできない民族になってしまったことが、進展解決への大きな障害であ
り、そういう面で、問題は金正日ではなく日本人の心にあるのかも知れない
オバマ来日を控えて
オバマ来日を控えて


敗戦後東京軍事裁判で、裁かれた日本兵、そして軍関係者。そのおりただ一人
日本は無罪を主張したインドのパール判事。彼が広島の碑文

(安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから)を見ていった言葉



原爆を落としたのは日本人ではない。落としたものの手はまだ清められていない。

(過ち)が先の戦争をさしているなら、それも日本の責任ではない。戦争の種は

西欧諸国が東洋侵略のために蒔いた。日本国民がその良心に重い罪の悩みを持っ

ていれば、その国民に進歩 発展が無いことを記憶せねばならない。



厳しい言葉である。しかしながらパール判事の思いとは反対に、多くの日本人は
先の大戦を恥じて、命を落とした我々の先人を貶める行動と発言を繰り返す。

靖国一つ 支那人 胡錦涛の顔を浮かべてお参りもできぬふぬけである。

パール判事も 墓場の影で笑っているであろう。ここまで変質した日本人を。

オバマが来れば、核兵器廃棄演説でノーベル賞なんだから広島へ連れて行くべし!

そして彼らがいつも言う (リメンバー パールハーバー!)に対抗して 声高
に叫ぼう

(リメンバー ヒロシマ!!)

真珠湾は正当な戦いである。ヒロシマは世界最大の虐殺現場である
激しい人種偏見
激しい人種偏見

アメリカ旅行の折、バスのガイドが黒人だった。

(皆さん 今から行くところに土産物屋があります。そこはインデアンが経営し
ています。しかし奴らは計算もできないのです!おまけに酒食らってます。従っ
て土産物を買うときは気をつけてください。ったくもう 馬鹿共ですから)

  まあよくこれだけの英語を聞き取れたものだ!
  
その黒人は白人から差別されて、、、。虐められると自分よりまだレベルが低い
ものを差別したくなるようだ。

しかしこのようにしたのは白人だろう。勝手にアメリカ大陸へ乗り込んで彼らを
一カ所に閉じこめ、教育も受けさせず、仕事も与えず、生活保護費の支給だけし
ておけば、、ほとんどアル中になるよ。

今支那人がやっていることがそれとまったく同じ。チベットでの虐殺と民族浄化

作戦。インデアンよりひどいかもしれない。

オリンピック以降ジャーナリストをいれないようにしている中で、虐殺が相次い
でいるらしい。

チベット人への強制不妊手術  、、、、

連行して開腹手術 卵管を引っ張り出し切除 麻酔無し 後はアスピリンだけ

こういうことが至るところで行われているらしい 。
  
この支那人め 犬畜生にも劣る。  
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